読書感想文とかいう
小学校
たしか、5年生の時。
有名な国語教師が来て授業を行う。
それを他の学年の先生、学校にいるほとんどの先生が集まって見にくる日があった。
その人は明るい印象のおじいちゃんだった。たしか、灰色の渋めのジャケットを着ていた。
内容は、A君がB君に悪いことをした。
B君はA君に仕返しをした。
悪いのはどちら?
というようなもの。
「悪いのはどっちでしょう」というお題が出て
悪い方をクラスの全員に発表させた。
「A君」「B君」
たぶん「さきにやったA君が悪い」っていう答えた子が多かった気がする。
私は同調圧力とハブられることに敏感な子どもだった。
そんな私が
「先に始めたA君も悪いけど、やり返したB君も悪い。どちらも悪い」
と答えてしまった。
「A君」 「B君」
という答えの中に
「どちらも悪い」
という答えを生み出してしまった。
それからそのおじいさん先生は楽しそうに「新しい選択肢」「新しい展開」として「どちらも悪い」と言った私だけを新しい答えの例とした。
私は「1人だけ違う」ということに涙が溢れてしまった。我慢はしたけど。
自分だけ違う、ということだけがダイレクトに突きつけられて、土俵に上げられて注目されることに当時の私は耐えられなかったんだろう。
あの時はとても辛かった。
だから今でも覚えているんだ。
今思えば、いきなり涙を溜め始めた小学生におじいさん先生はとても戸惑ったことだろうと同情の気持ちが湧いてくる。(まだ生きていたらお菓子でも持って行って謝りたい。ごめんなさい)
でも、話を進めるうちに私の意見に加勢してくれる子たちが出てきて、私はすごく心強かった。
国語の授業で1人意見が違うことで陸の孤島にいた私。私の島に人が来てくれた。
授業が終わると、私のノートを観に、後ろで観ていた先生が近づいてきた。私のノートを観て、何かメモを取っていた。
時々そんなことがあったように思う。
読書感想文が好きだったし、意見が人と合わないことの方が多かったから、昔から変なことを書いていたのだろう。
みんなと違うから目に止まったのだろう。
大学のゼミの授業で毎回2,000字の感想を書かされた。授業自体は合同で、ゼミの先生ではない人が授業をした。感想文は各々のゼミの担当の先生が読む。
10回ほど授業があったあと、ゼミの先生と話をすることになった。
名前を言うと「ああ、君が〇〇か」と。
特になにも言われなかったが、きっと感想文を読んで頭に止まっていたのだろう。
そう思いたいが。
感想文は書くと止まらなくなる。
自分の中で心に引っかかった部分を噛み砕いて、咀嚼して、客観的に観た視点とそれに対する自分の感情を書くことができる。
たぶん、自分を表現するのが好きなのだろう。実際、口頭で喋るより文字に書いたほうが言葉がすらすら出てくる。
そんな視点で書いていると、規定された2,000字を超えて3,000字、4,000字と書いてしまった時があった。
だから先生はただ単に
「ああ、あの長文を書いてくるやつか」と思ったのかもしれない。
読書感想文を書いて嫌だった思い出がない。
いや、嘘をついた。
最初はすごく苦手だった。
自分の感情を言葉にすることができなかった。
それが、学年が上がっていくとだんだんと書けるように、最低限のことは書けるようになったと思う。
宿題の中でも読書感想文だけは1番好きだった。楽しかった。
なんなら、毎回読書感想文でいい、とさえ思っていた。
自分の書いた文章に、自分の持った感情に、先生が丸をして褒めてくれるというのはとても嬉しい体験だった。
特に、表現の仕方や言葉選びを褒められるのは嬉しかったと思う。
習ってない表現を使ったときも褒められた。
私はそんなふうに、たびたびネットの議題に出される「読書感想文」に肯定的な感情を抱いている。
だからなんだ、ということだが。
否定的な人が多い、嫌いだった人が多いものを好きだった、というのもまた「大勢と違う」結果になってしまっている。
それで私は泣くことはない。
もう涙を溜めることはないし、おじいさん先生を困らせることもない。
みんなが嫌う読書感想文が
僕には救いで、
僕には自分を認められてもらった数少ない経験の1つになっているということ。
ただ、それだけだ。
良い、悪いかはわからない。
ただ、そんな「読書感想文」の思い出の話。
2020/10/20